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「帰れなかった戦友たちのためにも…」
大助先生が少年剣道を語る時、いつもこの一言から始まった。
「佐藤、あとは頼んだぞ。」
と言い残して逝った同年代の戦友たち、彼らが命をかけて守りたかったもの、そして、生き残った自分に託したかったものは何だったのか。
それを問い続けて導き出した答えが「剣道を通して、日本の未来を担う大切な子供たちを育てていこう」という決意だった。
いつも底抜けに明るく、ひょうきんな大助先生が戦友たちの話になると、深いしわが刻まれた目に涙を浮かべた。 |

陸軍上等兵の頃
(昭和二十年) |
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一見すると剣道の先生とは思えないほどの大助先生のやさしさとあたたかさは、こうした思いから生まれたものなのかもしれない。 |
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大助先生は大正十一年、七人兄弟の六番目として横浜市に生まれた。
父(正作)も剣道の先生であり、藤沢警察署溝分署(現在の相模原警察署)で師範を務めていたが、大助先生が七歳の時に急性心不全のため他界した。四十四才の若さだった。
年長の兄と姉が母を助けて家計を支える生活の中で、大助先生は小学四年生の時、剣道を始めた。 |

藤沢警察署溝分署
剣道大会
(大正年間) |
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周囲の人々からは「突きの名手の正作先生の息子」と言われるのが、父と一緒にほめられているようで嬉しかったそうだ。 尋常高等小学校を卒業すると、すぐに満州に渡った。
満州では、一日中の重労働のうえ、凍えるような寒さの中、納屋で寝泊りさせられた。このような過酷な状況に耐えかね、一年余りで帰国した。その後、塗装の職を経て軍隊に入隊する。太平洋戦争末期の昭和十九年、陸軍衛生兵として埼玉県入間郡豊岡町(現在の入間市)の修武台陸軍病院に赴任。 |

満州から帰国
(昭和十二年頃) |
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終戦後は米軍ジョンソン基地に勤務した後、入間にて塗装業を開業する。 |
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GHQによる占領が解かれ、剣道が復興するとすぐに稽古を再開した。そして、徐々に少年剣道への思いが膨らんでいった。最初は自宅の車庫で、近所の子供たちに剣道を教えた。ガレージ道場と呼ばれたコンクリート面での稽古は靴を履いて行ったため、すり足の稽古が難儀であった。 |

自宅車庫での稽古
(昭和四十五年頃) |
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昭和五十一年、現在の場所に修心館剣道道場を設立し、大助先生は館長として本格的に青少年への剣道指導に邁進する。大助先生の指導はとにかく明るく笑顔があり、あたたかい。それがいつしか道場全体の雰囲気となっていった。
道場で大助先生が口にしていたのは、「思いやり」と「感謝」である。試合でも「勝って来い」ではなく、「堂々と戦って来い」と言っていた。 そんな大助先生の気持ちが色濃く現れているのが、毎年三月に開催される「修心館剣道大会」である。 |

(昭和四十五年頃) |
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この大会は、道場内の少年剣士たちが、幼児から中学生までの4チームで対戦する。勝敗も大切であるが、それ以上にチームの中で協力する気持ちを養うことを重要な目的にしている。昔の大勢の兄弟がいた時代のように、年上の剣士が年下の剣士の面倒をみる場でもある。そして何よりもこの大会のユニークなことは、表彰方法である。優勝チームは金メダル、準優勝は銀メダル、三位と四位も銀メダル。 |
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それは、こんなエピソードがあったからだ。 ある日、剣士の一人が「大助先生。僕は小学一年から九年間、一生懸命に剣道をやってきたけれど、賞状やメダルをもらったことがない。試合は嫌いだよ。」と、さびしそうに言ったのだ。
一生懸命に稽古をかさねて試合に出場しているのだから、たとえ負けても評価してあげたいという大助先生のアイディアでこのような大会となり、今日に至っている。 |

市内剣道大会にて
(昭和四十五年頃) |
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大助先生が他界して八年が経過した。現在稽古している少年剣士たちの大半は、上座の小さな写真の中でしか大助先生を知らない。
しかし修心館では大助先生が常に説いていた「思いやり」と「感謝」を大切にする信念は、今もまったく変わっていない。もちろん、稽古中は凛とした厳しさはあるが、道場内はあたたかさと笑顔で満ち溢れている。 |
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そして最近ではうれしいことに、かつて大助先生が教えた子供たちが父親、母親となり、彼らの子供と一緒に道場に戻って来てくれている。
今では、彼らが強くて心優しい指導者となり、大助先生の教えを着実に次の世代へと伝えている。何よりも、大助先生が望んでいたことだと思う。 |

修心館剣道道場にて
(平成四年) |
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大助先生が「少年剣道を耕した人」であるのならば、大助先生が育てた苗はいま花開きつつあるのだろう。
修心館剣道道場 館長 佐藤清美 |